私達の住む与那原町を紹介します
若夏(5月)の頃、炎のような真紅な花を穂状につけるマメ科の高木落葉樹で、沖縄を代表する熱帯花木である。
沖縄在来の常緑樹で樹勢強く、普及栽培も容易で、公園樹、庭園樹として最適。
樹齢を増すにつれ、黒光りする艶と堅い材質が三味線のさお、家具、装飾などの用材としても重宝されている。
強烈な太陽の下、四季を通じて燃えるように映える原色の花々は華麗である。
沖縄では「アカバナー」と呼ばれる在来のブッソウゲを始めとしたハイビスカスは品種も多種多様で、生命力あふれ人々の目を楽しませてくれる。
ヨナバルマジクは東南アジア各地沖合の砂地にすむマダイの仲間。「ヨナバル」と地名がつく唯一の魚である。
また町内には、与那原の海に投げ捨てられた子がマジクになって還ってきた・・・との言い伝えが残るなど、与那原を代表する魚として親しまれてきた。
与那原町は沖縄本島の東海岸南部に位置し、北緯26度11分58.5秒、東経127度45分17.5秒にあって県都那覇市から9qの地点にあり、南東に南城市、西に南風原町、北に西原町と3市町村に隣接している。
面積は、5.18q2(ヘイホウキロメートル)で東西に4.3q、南北に2.1qの長方形をなしており、東南の雨乞森(133m)、北西にそびえる運玉森(158m)に抱かれ前方に中城湾を臨む海岸線に広がる平坦地だった。 平成8年から始まったマリンタウン埋立事業により、元来の海岸線先0.82km2(ヘイホウキロメートル)が埋め立てられている。
気象条件は、本町に限らず沖縄本島共通の亜熱帯性気候で年間を通して温暖で四季の変化に乏しい。年平均気温は22.3度、年間降水量1688mmで、春から夏にかけて特に雨量が多いが、 年によっては旱魃が起こることもある。また夏から秋にかけては台風が襲来する。
私達の与那原町の歴史は古く、沖縄最古の古謡集「おもろさうし」の中に「よなはる」や「よなはばま」(与那覇浜)の名で登場している。
与那原の地名は、かつて海岸地であったところの名称であるといわれ先史時代の面影は、きわめて静かで白い砂浜が続く入り江を前にした浦辺の仙境であったと思われる。
古代の与那原人が最初に住み着いたところは、上与那原(町南西部)であったといわれている。当時の上与那原は、海に近く漁労に便利でしかも水が豊富だったため、自然に人が住み着き、
集落ができたと考えられる。
王府時代の与那原は大里間切の一村であった。明治12年の廃藩置県後まで大里間切、明治41年の市町村制により大里村の一字となる。
浜を山原船が行き交い、東部海上交通の拠点だった与那原は、物資を運ぶ荷馬車事業者(与那原馬車スンチャー)で知られた。大正3年に那覇-与那原間に沖縄県で初めての軽便鉄道が開通し、
島尻郡東南部や中頭地方を連結する産業経済の大動脈となり、ますます活況を呈した。
分町問題は昭和3年頃から持ち上がり、昭和19年町制実現を目前にして戦争のため中断されたが、戦後再び分町の気運が高まり昭和24年3月31日、
当添・板良敷・上与那原・与那原の4字が大里村より分離し、同年4月1日町制を施行して、20年を経てに与那原町が誕生した。
沖縄の施政権は敗戦後から昭和47年5月15日の祖国復帰までの27年間米国政府の支配下におかれたが、与那原町民自らのエネルギーで徐々に復興の道を歩み続け、今日の与那原町を造りあげた。
本町は、平成2年に策定した基本構想「太陽と緑の町・与那原」に沿った東部地域における中核都市、文化都市、福祉都市づくりに邁進してきた。
県は平成8年から西原町とともに沿岸の埋立事業を行い「マリンタウン」と名づけた新たなまちが生まれた。
現在の行政区(または自治会)は当添・板良敷・港・江口・中島・新島・森下・浜田・与原・大見武・上与那原・県営団地・東浜の13である。
町民憲章は町民が暮らしていくうえで、忘れてはならない大切な目標のことです。昭和60年7月1日制定。
与那原町の頭文字「よ」を波と飛鳥のイメージに図案化し、町の融和・平和団結を表現するとともに産業の雄飛発展を力強く象徴する。
(昭和48年4月1日制定)
♪ こちらより町歌をお聞きいただけます。 ♪
昭和56年6月1日制定
作詞 野田猛良
作曲 城間 繁
朝陽に映える 上の森
中城湾の 風すがし
あける町並み すこやかに
希望ほほえみ 夢が呼ぶ
あゝ清新の 与那原町
大綱曳きの 意気通り
高き文化を はぐくみつ
伸びる産業 建設の
音青空に こだまする
見よ躍進の 与那原町
伝統つぎて はらからの
和と団結の あるところ
自治のいしずえ ゆるぎなく
理想の行手 ひらけゆく
おゝ栄光の 与那原町
◇与那原町「非核都市宣言」(昭和59年10月1日)
被爆国民に再び死の灰が降りそそぐことなく、人類の永遠の生存と幸せのために、地球から一切の核をなくすよう強く訴えるため与那原町にて「非核都市宣言」が採択されました。
◇「ちゅらさん運動と飲酒運転根絶の更なる推進」宣言(平成23年6月17日)
犯罪や交通事故を減らし、安全で安心して暮らせる地域社会の実現のため「ちゅらさん運動」と「飲酒運転の根絶」をさらに強力に推進することが宣言されました。
◇「しまくとぅば」の普及促進に関する宣言(平成24年9月28日)
「しまくとぅば」の普及促進を図り、町民、県民一人一人が「しまくとぅば」に対する関心と理解を深め、生活の中で「しまくとぅば」に親しめるようあらゆる努力をすることを宣言しました。
◇5月21日 町民平和の日(平成23年3月7日)
本町は先の大戦により、完膚なきまでに破壊されましたが、先人たちのたゆまぬ努力により復興を遂げました。二度と戦争は起こしてはならず、平和の日を定め恒久平和を町民全体で誓うため、 運玉森で日本軍との間で激戦が行われた末、米軍が与那原周辺を支配下に置いたとされる5月21日を「町民平和の日」と制定しました。
◇与那原町「大綱曳のまち」宣言(平成27年8月16日)
私たち与那原町民は440年余の年月をかけ、五穀豊穣、民衆の繁栄を祈り、与那原大綱曳の「曳き清らさ」「勝ち清らさ」「敗き清らさ」のユナバルンチュ精神により、町民の融和を育み、 幾多の困難を乗り越えてきました。その精神を未来へ引き継ぎ、明るく活力ある与那原町を築くため、「伝統と優しさ」を未来へ繋ぎ、先人から受け継いだ与那原大綱曳を町民の誇りとし、 町の象徴として継承発展させていくため、与那原町は「大綱曳のまち」を宣言しました。